50th Anniversary Message

私が大学で学んだこと ~学問の前で己の小ささを実感し、病の前でヒトの儚さを知る~

山田 晴生(医学部第8期生)

医療法人生寿会 理事
かわな病院 副院長 腎臓・リウマチ膠原病内科

愛知医科大学創立50周年おめでとうございます。一口に50年と言いましても、そこには山あり谷あり、様々な苦難があった事と思います。これを乗り越えることが出来たのは、同窓生、他大学出身の諸先生方、看護師、事務職の方々の血のにじむような努力のたまものです。同窓生として初めにこれらの諸氏に厚く御礼を申し上げたいと思います。

今の職場で若い職員さんから、先生は何故医学部を志したのですか?と聞かれることがあります。父が開業医でしたから、自然に・・・ということだったと思います。やはり、私にとって一番つらかったのは、最も親密な遊び相手であった祖父が胃がんで約1ヵ月の闘病生活で亡くなってしまったことです。私はその頃に母親に連れられて予防接種に行き、ワクチンを打つと同じ病気に二度と罹らないと言われ、泣きながら打ちました。その記憶から将来はワクチンで癌を征圧出来るように勉強するぞと思っていました。

大学に入学して特に思い出深い講義は細菌学の初代教授で野竹邦弘先生の講義でした。大変ユニークな講義で教育熱心な先生ならではの愛情にあふれていました。特に、免疫学の講義では、全ての講義が終わった授業の最後に“君たちは最高の免疫学の講義を受けた。どこに行っても恥ずかしくないぞ!!”。私は将来、免疫学に関わる仕事に就きたいと思うようになりました。野竹先生は教授としての熱意を超えて、医師として研究・教育に情熱を注ぐということは如何なる態度かを背中で教えていただきました。

父は、“自分の学生時代が軍事教練ばかりで勉強する機会が少なかった。大学とは学問をする場所であり、しかもお金に結びつかないことを追求する場である。お金に直結する研究は企業の研究所がするものだ。”と言っていました。私が医師になってからも大学で積極的に勉強を続けることを勧めてくれました。

私が卒業後に最初に出会ったのは当時第一内科の沢木偆二先生でした。沢木先生はこれからの時代は免疫と遺伝子の時代であると仰い、疾病の全ての現象を代謝と結びつけて考えることを示されました。しかし、愕然としたのは、癌の予後が祖父の時代も当時もほとんど変わっていないことでした。当時は癌の原因が遺伝子の異常であることがやっと解りかけた頃でしたので、仕方なかったのかもしれません。私は診療とともに、沢木先生の指導で活性酸素の研究を始めました。沢木先生は大学での最終講義で活性酸素の意義が遺伝子レベルで解明されることを期待すると仰って、講義を終えられました。その後、私は幾つかの幸運と良い巡り会いに恵まれて、血液透析と活性酸素の関わりを遺伝子レベルで解明できました。

筆者と沢木偆二先生

この縁は大学で研究を続け、お金に結びつかない多くの出会いがあった末に到達し得た結果です。その業績が私の名前とともにNIHの遺伝子データーベースOMIM Entry – * 185490 – SUPEROXIDE DISMUTASE 3; SOD3に収載されています。このことは沢木先生及びこれを支えてくれた皆さん並びに大学の支援に多少なりとも報いることができたのではないかと思っております。

学会では大学の研究者とともに、企業の研究者ともお付き合いをいただきました。大学の研究ではチャレンジと失敗は日常茶飯事でしたが、企業の研究者にとって失敗は人生の命運を分かちます。出会った多くの企業研究者が研究とは別の分野に行かれたのを見て、研究の厳しさと大学での学問の懐の深さを改めて実感することができました。

ちょうどその頃、時代は21世紀へと移り大学が社会にとって学問の府としてよりも解りやすさを求められる時代になりました。臨床医学でも従来のナンバー内科制から臓器別編成に講座再編が行われました。これはお金にならない学問からお金を強く意識する学問への変革でした。私の所属は第一内科から腎臓・リウマチ膠原病内科へと移りました。その初代教授の今井裕一先生は臨床研究と教育に大変熱心な先生でした。お金にならないはずの学問としての基礎知識を臨床応用する方法を教えて頂きました。こうした基礎研究を臨床応用する手法を勉強できることも大学ならではの役目であると実感できました。

大学が創立されてからの50年は私にとって祖父が亡くなり医師を志してからの50年です。その間にワクチン・遺伝子・免疫で癌を征圧することは夢ではなくなりました。これからの50年はどの様な50年になっていくのでしょうか。そんな夢を託せる素晴らしい大学となって成長されることを心より祈念いたします。