50th Anniversary Message

母校と同窓会

加藤 眞司(医学部第1期生)

医療法人 欅の森 かとう医院 院長

私は、第一期生として昭和47年の春、愛知医大に入学しました。入学式のとき今でも覚えているのは、立石池を右手に見ながら小川沿いの道を歩いて行くと三階建の建物が一つポツンと建っている光景で、なぜか宮沢賢治の注文の多い料理店を思い出しました。入学生は142名、学籍番号は全員72から始まる五桁の数字でしたので、その後にできたクラス会は72会と命名されました。A組とB組、二つのクラスに分けられ、不安と期待の中、講義が始まりました。キャンパスライフと言っても建物の1階に小さな食堂があるきりで、放課後には三々五々、お互い話しかけ、いろいろな方言に驚きながら仲間ができていきました。この先輩も後輩もいない独特の雰囲気が、「ここはまだ石コロゴロゴロ・・・、ここはまだヤブ蚊がブーンブーンだけど、ここに大学をつくろう、ぼくたちの大学をつくろう・・・」、という裏校歌を誕生させ、ことあるごとに皆で歌い一期生のアイデンティティを育んでいきました。  

医学部らしくなったのは立派な11階建の附属病院と池を望むアーチ型の美しい専門棟が完成してからですが、三十年史によれば、それまでに陣痛のような多くの負の歴史があり、先人たちは大変苦労されました。 

卒業後、学外での研修を終え昭和56年、母校の第二外科に入局しました。大学院生のいわゆる無給医時代、教官たちは日夜の診療に手一杯で、卒業生に対する卒後教育は見て覚えろ式のもので、とても充分とはいえませんでした。もちろん新天地で一旗揚げようという熱い教官もいましたが、黎明期にあって卒業生が伸びていくことは困難な時代であったと思います。

5Cのスタッフとともに(平成9年3月当時)

当時、同級の藪下廣光君が抜群のリーダーシップでみんなをまとめていました。第一期生卒業2年後の昭和55年に同窓会が設立されましたが、彼が初代同窓会長に就任したのは自然の流れでした。その後も彼は37年の長きにわたって会長、副会長を務め同窓会を支え続けました。彼こそ愛知医大同窓会のレジェンドにふさわしいと思います。その藪下君の影響もあって同窓会に参加するようになり議論を繰り返すうちに、純粋で無垢な何かを感じるようになりました。参加メンバーは少数でしたが、皆、強いモチベーションを持っていました。

平成19年、藪下君から同窓会長を打診された時、とても断ることはできませんでした。会長になって最初に考えたことは、あらためて同窓会とは何か、ということでした。同窓会はひとつの文化に違いありません。ただテーマが大き過ぎてつかみどころがないので、どうしても、母校を支え同窓生が連帯していく、という文言におさまってしまうのです。もっと単純で具体的なイメージはないかと思い浮かんだのが、たとえば横断歩道とかガードレールみたいなものでしたが、どうもしっくりいきません。いろいろ悩んで思いついたコピーが「ゆるやかな絆」でした。その後、会員数も増え組織としても成長し、社会的な責任も担うことから平成23年には伊藤伸一理事を中心として皆が一丸となって東奔西走し、念願の一般社団法人愛知医科大学同窓会(愛橘会)が誕生しました。

もとより同窓会は単独では存在できません。母校と同窓生との三位一体が不可欠です。特記すべきは、私の会長時代、当時の三宅理事長の同窓会への熱い姿勢でした。なんと直接、在野の同窓生に語りかけたのです。それまでには考えられないことでした。当時、理事長は新病院建設という大きな目標を掲げ、それに向けての協力という側面もありましたが、島田本部長と共に全国34か所の支部会をくまなく行脚し、中には参加者数名の支部会にも進んで足を運び、毎回、母校のこと、とくに激動の歴史を熱く語りました。つまり大学と同窓会はワンチームであると訴えたのです。そして、あのリーマンショックのあとにもかかわらず島田本部長とタッグを組んで遂に新病院建設を成し遂げました。結局、同窓生からの寄付金は想定以下でしたが、それでも新築の医心館への同窓会事務室の設置、キャリアのある大学職員の同窓会への派遣など三宅理事長と島田本部長からは同窓会へ多大な支援をいただきました。 

全国の同窓会を行脚した三宅理事長(当時・左)との集合写真より

最後に、このたび母校が創立50周年を迎えるにあたり、祝意とともに母校と同窓会の発展を祈らずにはおれません。また後輩たちには同窓会とはなにかという議論を今後も続けてほしいと思います。