50th Anniversary Message

祝50周年 “繋がりを感じて”

安川 龍也(医学部第14期生)

医療法人紘心会 理事長

小生の入学当時の愛知医大と言えば、長久手の田んぼの中に病院のみ聳え立っている陸の孤島状態で、図書館通りなど開通しておらず、バスレーンの続きは四軒家から東のアスファルト舗装はなく、藤が丘からの愛知医大バスは砂埃をたてながら患者や学生を運んでいました。大学内はというとAB病棟C病棟 基礎棟 小さな教養棟があり、現在の大学本館の場所にテニスコートとグラウンドがあったのみで、その狭いグラウンドには硬式野球部・ラグビー部・サッカー部が同時に練習をしていて、入学したての小生のもつ大学というイメージとはかけ離れたものでした。学生や教官は個性豊かで、北は北海道、南は沖縄からの入学者があり、各地の方言が飛び交うまさにmelting potで、それらの結びづけを強固にしたのがクラブ活動だったような気がします。

現在の医学部のカリキュラムからすれば、我々の時代はそれほどきつくなく、ある意味伸び伸び学生生活を送れたように思いますが、このクラブ活動こそ人間形成や縦横の繋がりに大きく役立ち、後々医師となってからも大きな財産になったことは間違いありません。当時野球部に属していた小生は、先輩から“他の大学には絶対に負けるな!”と鼓舞され、それは医師になってからも根底にあり続けていますが、私だけではなく皆、劣等感を跳ね除けたいという思いが強かったと思います。

そういった思いは医局に入ってからもそうでした。第三内科(現在の循環器内科)に入局した小生は、先輩医師達が研究・臨床において他大学・他病院を引き合いに出し毎日夜遅くまでdiscussionし、医局や愛知医大のレベルアップに貢献していた姿を見て、小生もその仲間に入りたいという思いが湧いたのを記憶しています。当時の循環器内科と言えば、ドイツ人医師のGrüntzigがアメリカ循環器学会でバルーンカテーテル治療を発表してから、全世界がカテーテルインターベンション治療を臨床応用・研究していた時代で愛知医大でも水谷登先生が導入し始めた頃でした。今ではほぼ確立した治療となり、急性心筋梗塞や狭心症の治療を大きく前進させたものですが、小生はこの世界に飛び込むことになったのです。

当時医局長の水谷登先生に直談判し、繋がりのある安生更生病院麻酔科に出向研修した後、市立半田病院循環器科に常勤医として赴任し、研鑽を積んで平成8年に帰局しました。その約半年後にオランダ エラスムス大学から尾崎行男先生(前藤田医科大学循環器内科主任教授)が当医局に赴任され、臨床研究のイロハを教えていただき、アメリカやヨーロッパの学会で研究発表したことも良き思い出となっています。繋がりはさらに波及し、名古屋大学循環器内科医局長の松井先生(市立半田病院の先輩医師)から土岐総合病院へ週一のカテーテル治療を依頼され、そこに研修医あがりの高島浩明先生(現愛知医大 循環器内科教授(特任))が勤務されており、その後小生が属していた循環器虚血グループの一員となり一緒に研究・診療に携ったことや、野球部の後輩の栗田章由先生が当医療法人傘下のクリニック院長として来てくれたことなど、愛知医大を卒業して30年を過ぎましたが、今尚繋がりを強く感じています。

こうした繋がりは、地元出身で卒後愛知医大に入局し勤務した小生だからこそ深いものがあるのかもしれません。50年の歳月には多くの卒業生が誕生し全国各地で活躍されていますが、卒業後に愛知医大および卒業生同士を結びつける役割こそが同窓会かと思います。平成23年には当時会長の加藤真二先生のもと同窓会も法人化され、全国の同窓生を対象とした活動を行ってきています。今後、50年さらには100年 卒業生と共に愛知医大が発展し続けることを願いたいと思います。 

愛知医科大学創立50周年おめでとうございます。